ひきこもりマルチリンガルw

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マジョリティによる多文化共存(涙)・Culture Club

本日は、また、昨日の続き、育児ふり返りブログでございます。
もう飽きた、と仰るかたは、お詫びの音楽動画をどうぞ!
あいにく、歌詞付きが見つかりませんでしたが
Culture Clubのオリジナル動画、日本人(爆)カメラマンの群がる
Church Of The Poison Mindでございます。

 

Culture Club - Church Of The Poison Mind - YouTube


【マジョリティの視点による「多人種・多文化共存」】2005年2月8日


一般的に、英国人は「あらゆる差別」に非常に敏感だと思う。
なにしろ「差別」になりそうな要素の宝庫だからだ。
「人種」「民族」「宗教」「男女」「同性愛」...など
現代諸国でよく見かける「差別のモト」の他に
「階級」なんてものまであるから、経験豊富になる。

私の印象で言わせてもらうと、英国では
穏やかな(昔の言い方では良きクリスチャン的)良識ある市民は、
「文明的な市民の証し」として、「差別はいけない事だ」と
教養として習ったり、道徳として従ったりしている様に思える。
しかし
「分類」自体は、誰でも本能的に行ってるはず。
だから
「差別を徹底的に除去」と、思うのだったら
その大モトであるはずの「分類」から
じっくり分析しなければ何も始まらないはずなのだが
なにしろ
「教養として」習ったり
「道徳的に」従ったりレベルで満足している人は
どうも、その分析にまで至らないようだ。

そうすると、どうしても、「分類」の分析をする事無しに
その「分類」の「結果」のみに注目しがちになってしまう。
つまり
「分類自身は良い(「だって、違うんだもん!」)」
「その分類行為が差別的行動にならなきゃいい
(これ以上、考えるのが面倒くさい)」
....といった感じだ。

例えば、前回、日記で取り上げた、
息子達が受けた「肌の色の分類」の授業
これは、よくよく考えてみると、たぶん
自画像を描く前の「分類」だったのだろう。

どんな成り行きだったか長男も次男も覚えていないので
私の学校での手伝い経験から推測してみた...
まず、
自画像の肌の色に使用する絵の具は、
「cream」と「brown」の二種類を
いつものお絵描きの授業のように、
あらかじめ大人が混ぜて作り用意しておき
違うテーブルの上に載せておいただろう。
だから
自画像の肌の色は二種類しか無かった。
それで
子ども達が「cream」と「brown」の
どっちの絵の具を使うべきか指導したか、或いは
子ども自身とクラスメート達に選ばせたのではないだろうか?

次男のクラスには3人しかbrown組がいなかったので
教室の壁に貼ってあった自画像の中で
ほとんど同じ肌色の大多数の中の
ほとんど同じ褐色の自画像3枚は非常に目立ったのだ。
そして
この自画像を描く授業の時、
肌の色を二種類に分けて作る事について、大人も子ども達も
「差別」だとは思ってもいなかったはずだ。
それは、単なる「外見による分類」だった。
「○○君の肌は、この色だもんね」という分類…。

確かに、次男のクラスの6割以上は金髪で、肌の色は、
文字通り真っ白という感じだ。血管が透き通るほど白い。
5~6人いる茶髪の子も肌の色は白い。
次男と並ばせたら、その色の差は歴然としてる。
だから、brownをコーヒーから小麦色までと考えると
次男はbrown(褐色)で当然だ。

しかし、問題は、そこではない。
この授業に関する「良識のある文明的な市民」の見解を
具体的に言葉にすると、こんな感じではないか?

褐色の子は褐色の肌の美しさを誇り
白い肌の子は白い肌の美しさを誇る
それが、多人種の共存。
褐色の肌なのに、白い肌用の絵の具で色を塗ったら
むしろ、それこそ、褐色の肌よりも白い肌の方が優れている
という偏見・差別になる。
だから
褐色の肌の子にはbrownの絵の具を
白い肌の子にはcreamの絵の具を用意するのは
お互いの肌の色「人種」を尊重するという事。

それが、英国での「多人種の共存」という事なのだと、私も思う。
そして、そこが、英国の「多人種の共存の限界」ではないか?
「"分類"は悪い事ではない。」
「分類した後に、お互いを尊重して共存すれば良い。」
それが、英国式「多人種共存の掟」だと、私には思えてならない。

しかし、一番の問題は、
「分類」というものは、どこの国でも地域でも、
マジョリティを基準として行われるところにある。

英国にも「分類の種類」は多々あるのだが
まず、一番目立つ「外見による分類」を例にしたら
とどのつまり、「白人か非白人か」という分類だ。
具体的に言うと、
白人に少しでも、非白人の「血が混じって」いれば
(或いは「混じっている」と推測できる外見であれば)非白人。
その結果、例えば、片親が白人、片親が黒人の子供は
黒人と「分類」される。
そして
外見で黒人と分類された子供は
「黒人文化」という、やはり白人基準で割り出された
「ちょっと白人とは違う(らしい)生活形式」や
「ちょっと白人とは違う(らしい)思考方式」や
「ちょっと白人とは違う(らしい)行動様式」や
そんな、一つの「文化背景集団」に属する...と、とりあえず分類される。

外見がChineseなら、片親が白人でも
「中国文化圏↓」に分類
(毎日お米食べてるんだろうな...)
(クリスマスは祝うんだろうか...)
(新年はChinese New Yearを祝うのよね?)

外見がAsian(南アジア人)なら、片親が白人でも
「南アジア文化圏」に分類
(毎日カレー食べてるのかな..)
(結婚は、お見合いか...)
(モスクとかヒンズー寺院に通ってるんだろうな...)

要するに、無意識のうちでもあるのだろうが
「マジョリティ(この場合、白人)と違う」所が
非常に注目されるわけだ。
そして
その「違う所」、お互いの「違い」を「尊重しよう」というのが
英国式「多人種・多文化共存」の哲学・理想であり建前でもあるわけだ。
そのため、お互いの「違い」を強調する傾向が強くなってしまう。

しかし
「人と"ちょっと"違っている」ことを喜ぶのは
大人、特に、マジョリティで育ってきた大人くらいだと思う。
それも、あくまで、"ちょっと"の違い
「違いのわかる男…」的な、微妙な違いだ。
交差点の向こう側から判るような違いではない。

ごく、たまに、自分の事を「ちょっと変ってる(常人と違う)」
と、自己申告する人がいるのだが、たいていは
「常人(ごくフツーの人)の範囲内」だ。
誰かに「あんた変よ」などと言われ
自分の言動で他人が不愉快にならないようにと気遣って
あらかじめ警告している人もいるだろうが
一般的に、もし
「本当に変わっている」「本当に常人と違う」場合は
違い過ぎて本人も意識していないか、
違い過ぎて改めて申告する気にもならないか、逆に
「違って見えるけど本当は皆と同じなのよ~」と
同じ部分を強調しようとするか...で、自分から
「ちょっと違う」などと申告しないのではないか?

特に「変っている」「違う」と、うれしそうに言う人は、
マジョリティとして育って来て、むしろ、
自分と同じ人が、たくさんいるのにウンザリして
「ちょっと(一般と)違う存在」になりたい
そんな風に思っている人に、私には見えてしまう。

そして
英国式「多人種共存」の発想も、まさに、その
マジョリティという事に厭きたマジョリティの
マイノリティへの憧れみたいなものからも来ているのではないか
と、私は常々考えているのだ。

「自分と違う人」を嫌う
「自分と違う人」を怖れる
「自分と違う人」を疑う
「自分と違う人」に興味を持つ
「自分と違う人」に憧れる
様々な反応があって、それに即した行動もある。
だが、実は、出所は同じ。出所は一つ。
それなのに
「違い」に憧れる人は「憧れる」という意識が
好意的でポジティブなので、その心のもとと同じ所から
「嫌う・恐れる・疑う」の様な否定的な意識が生まれている所に
気付かないのではないだろうか??
同時に
みんなと同じだと思っていたのに
(というか、違うという意識がなかったところに)
ある日、突然
「違う」と言われて戸惑う子供の気持や、そうやって
「違う」と言われたり思われたりを重ねて大人になる事にまで
考えが及ばない。
それが
「マジョリティの視点の死角」だと私は思う。

これを補う為には
「マイノリティの視点」が、欠かせないのだが
はたして、その、マイノリティの視点が
マジョリティとして成長し生き続けている大人に
どこまで理解してもらえるか?が、また
新たな問題として出てくるのだ。
悲観的な時は
「多人種や多文化が本当の意味で共存している国なんてあるのか?」
とも思う。
なぜなら
何かが起こる度に、即「人種差別だ」と連想(し、行動)する人も
「マジョリティの視点」を強く持っていると私には思えるからだ。

「マジョリティで成長した人」が、急にマイノリティになると、
より「差別」に敏感になる。
そして
「マジョリティで生きてきた自信」があるからこそ
差別を受ける事に憤慨も"できる"し強く行動にも出れるのではないか?

そもそも
「マイノリティ」や「マジョリティ」というのも
絶対的な基準ではない。
ある状況では「マイノリティ」になる人も
ある状況では「マジョリティ」になる。

英国で、アルカイーダに勧誘された
「ムスリム系英国移民二世の若者」...
英国で生まれ育ち、英語で生きて来た若者達。
「英国社会に居場所が無いのを知った」
「育った国に裏切られた」
9.11以降、周囲の反応から
そんな失落感を持ったムスリムの若者が勧誘された(らしい)
という意見を、よく聞くのだが、
私には、彼等の、
英国という国単位ではマイノリティだが
地域によっては圧倒的マジョリティにもなり得る
微妙な存在..
そんなマイノリティとマジョリティの間をゆれ動く意識
それが、
最終的には、過激派テロへつながる道を
歩ませる事になったのかもしれないと思えてならない。

「人種差別」というのは、今(特に「多人種共存化」中の国では)
単純で明らさまな「わかりやすい差別」の時代から
もっと複雑な、差別なのか何だかわからない、
差別だと即判断してしまうと本質を見逃す
そんな
複雑な姿に変わっていっているのではないだろうか。

もっとも、だからと言って
「じゃぁ、どうすりゃいいんだよ」と
具体案を聞かれれば、私にも、まだ、わからない(涙)。
息子達には
なんでもかんでも「racism」と決め付けないように、。
もっと、その本質が見えるように、そう成長してもらいたい、と
日々悩み続ける.....そんな状態だ(涙)。


【補足(2005年2月12日)】


あの授業についての私の推測ですが
ママ友・アシスタント・校長に確認してみたところ
ま~ったく違っていました~~(すみませんっ)
まず、
クラスで、肌の色分けをするという事は全く無いとの事(よかった)。
また
自画像もクラスで、一斉に描くのではなく、グループごとに描くので
絵の具も、生徒の希望に従って、大人が調度してくれるらしい。
ただ、
その時、肌の色について、大人が
「どんな色かな?」
「もうちょっと褐色を混ぜる?」と
認識を促す事はあるかもしれない、との事。
昨日、面談した校長からも
「肌の色について分類する様な事は絶対しない」
と確認しました。

【補足(2014年7月28日】


校長先生との面談の時に
この「マジョリティの視点」についても話してみました。
「異文化」背景の子どもたちに、
それぞれの「国」の言葉で文字を書かせ
朝礼で、皆の前で、発表させるという授業があったからです。
校長先生は、
「ジロー君、とっても誇らしげでしたよ」
と、喜んでいらしたので、まずは、お礼を述べた後で
それは「"特別な能力"を誇る」という点では素晴らしいが
同時に「他の生徒たちとの"違い"」を認識することにもなり、
子どもは、一般的に、他人と違うことをおそれるので、
注意が必要ではないか、と、申し上げました。
ちなみに、
ジローの書いたものを見たら
「一二三 シ台 良月」と、よろよろした文字が…(爆)
心なしか、我が筆跡に似ており、恥ずかしくなりましたわ(爆)


ずっと「東洋人」が非常に少ない環境で育った長男タローは、
「東洋人」が非常に多い大学で学ぶようになり、
「自分の中の日本や中国な部分が、どんどん出てきている」
のが嬉しい、と、語っておりました…。

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近年は、モバイル技術の発展で、Selfie(自撮り)大流行
日本人=どこでもカメラマン…なイメージは無くなったと思いますわ(爆)。


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